サウナを「ただの嗜好品」ではなく、文化に昇華するために。 茶道と比較して見えてきた文化の内側

空間デザインを手掛けるCalが立ち上げた家庭用サウナブランド「Japan Sauna」。“数十年変わらない日本の温浴空間をもっと楽しいものにすれば、ライフスタイルはより良くなる”という想いのもと、同ブランドの設計からデザイン、制作まで、すべてを自分たちで完結させている。

2024年3月現在、今まさに今後のサウナビジョンについて構想を練っている真っ最中。そんなCal代表の真榮城徳尚さんが、これまでの人生で出会った人と会話を重ね、「Japan Sauna」のコンセプトを深める、いわば前日譚である本連載。

第3回に登場するのは、茶人として活動する傍らお茶の生産・販売・事業プロデュースなどを手掛ける株式会社TeaRoomの代表取締役の岩本 涼さん。実はおふたりは「市中の山居(都会の喧騒の中に人知れず作られる茶室を指す茶道の言葉)」をコンセプトとした一室限りの完全会員制隠れ家サウナ「the・」、そのコンセプトを深掘りしたサウナ「サ会」の制作を通して知り合った。

「Japan Sauna」は現代日本で生み出された、現代を生きる日本人のための“大量生産が可能なパーソナライズサウナ”の可能性も秘めているのだとか。そんな日式をベースとすることを意識している今回のプロダクトにおいて、サウナと日本固有の文化である茶道の共通事項を見出すことはできるのだろうか?

茶道とサウナの共通項を模索する

真榮城さん:

日本らしいサウナってなんだろう。茶室風サウナを作るというのは簡単にできるけど、だからこそそこにはいきたくない気持ちもあって。エストニアとかフィンランドでサウナが普及したのは、たぶん寒かったからだと思うんですよね。身体を温めるための手段として。もちろん日本にも極寒の地はありますが、全部ではないし。

岩本さん:

日本には温泉もあるし。

 真榮城さん:

茶道と絡めた「the・」を作ったときはすごく得るものが多かった。お茶の概念や精神もそうだし、解釈もそう。あのときにたくさん会話をしたからこそ「the・」という日本に数少ない和のサウナ空間ができたと思っています。

実は僕が最も刺激を受けたのは、型の追求を楽しむ空手少年だった岩本少年が、あるとき茶道の型を目にして感銘を受けたという、岩本くん自身の話だったんですよ。ひとつのお点前に集中することはメディテーションにもなるし、それが同時に向かいの人のためにもなるというところが他にはない文化だというような話をしてくれて、とても印象的でした。

岩本さん:

お茶の精神性は基本的に“向き合う”精神性なんですよ。自己との向き合いは内省、物なら見立て、他者と向き合うことは対話、それが特定多数となると茶会という形になります。

ちなみに日本の“道の精神性”は、ものに主体者が移ることを前提とします。例えば弓道の場合は「人間が矢を放つ」のではなく「矢が放たれる」となり、茶道の場合は「人間がお茶を点てる」というよりは、「お茶が点つ」という形になるわけです。自己との向き合いがものを通じて他者とのコミュニケーションに繋がっていく、そんな非常に稀な文化なんです。

真榮城さん:

自分のためのことを自分との対話としてやっていたら、他人に喜ばれて他人から感謝されるということですよね。なんて素晴らしいんだろう!

岩本さん:

茶を点ててあげるというのも、立派な贈与の行為であると思うんです。見返りを求めず、交換でもなく、目の前の人に対してどれだけ心を込められるか。例えば茶席には季節の花を用意するのが一般的です。ですが1週間経てば旬のお花も変わりますし、そもそも生花はそんなに日持ちのするものではありません。ということは、つまりその季節にその人をもてなすためにわざわざ山に入って花を摘んできたということの証明です。

真榮城さん:

ホスト側が季節の移り変わりを判断し、わざわざお客様のためにしつらえてあげたということを少しでも感じるきっかけがあったら、それは立派なおもてなしだろうということですね。

岩本さん:

これってサウナにも通ずると思うんですよ。例えばロウリュをするときに、「今日は皆さんの共通項であるお茶をイメージしたロウリュをやりたいと思いまして」というように、わざわざ準備をしてきてくれたら「この人はこの会を楽しみにしていて、だからこそ裏側で準備をして、参加者の皆のために尽くしてくれたんだ」ということが伝わります。この茶道のおもてなしの精神性をサウナにも転用しながら様式を形作れるといいですよね。

真榮城さん:

ここから一緒に考えたいと思ったのは、茶道はこれまでに積み重ねてきた歴史があって、なおかつ現代にも生きている。ただその一方で、茶道の精神をご存知ですかと言われると、多くの日本人はよくわからないと答えると思います。だからこそ「なんか茶道っぽい」で成立するふわりとした立ち位置のものが生まれている側面もあるのかなと。

岩本さん:

お茶の産業というのは、実は文化と産業に隔たりがあります。文化側の先生方は産業界に全く触れていない。一方で、生産者も文化に憧れはあるもののアクセスがない状態。また、一般的に見てもその傾向はあります。例えば抹茶ラテは身近なものだと思いますが、お茶のお稽古というとハードルが高くなると思います。

もしこれらがひとつの大きな産業になれば……それこそヨガやマインドフルネスみたいなものも含めて、ライトな接点から真髄までをそれぞれの層にわけて展開できたら理想的ですよね。過去の歴史500年弱の歴史の中で培われてきた知財というものに注目し、お茶というものに興味を持った方々がそれに触れられる環境を作っておきたいですね。

変わらない何かを求める現代人

真榮城さん:

今回はサウナですけど、「お茶×〇〇」っていろんなジャンルがあるじゃないですか。今はどのようなものを手掛けているんですか?

岩本さん:

今は万博の茶寮を作るにあたり、日本の体験とそのスポンサーが持っているアセットを生かした事業提案でのお話をいただいている真っ最中です。ホテルや旅館、カフェのほか、オフィスシーンにも茶の環境を作らせてもらっています。外資のホテルが日本に参入する際にはジャパナイズ(日本化)しなければならないため、外資のホテルからの案件は多いですね。海外のホテルが日本にローカライズとかジャパナイズをするときに、間を取り持てる人間ってほとんどいないので。

真榮城さん:

と、いうと?

岩本さん:

伝統文化系の長である家元にお願いをすると様式や格を重んじた設計になりますし、一方で知識のない設計会社に任せるとオペレーションを考えない茶室になってしまう。その点、私は当事者として茶室を使いますので、そういう意味で体験を構築する人間として空間からオペレーションまでさせていただく機会がすごく多いんです。

真榮城さん:

今僕らが作ろうと思っているのは、ホスト&ゲストの関係性でコミュニケーションをとり、自分も相手も整えることで調和が取れるというような世界観のサウナではなく、あくまでも家庭用のサウナプロダクトなんです。このテーマを皮切りに僕が考えているのは、「これからの日本のライフスタイルをどうアップデートしていくのか、そのひとつのツールとしてサウナはどうだろう」ということなんです。

実は以前エストニアとフィンランドに視察に行ったときに、エストニアにあるにあるスモークサウナに非常に感動した反面、これは違う文化圏におけるカルチャーだと感じたんです。それを日本という国や文化で考えてみたときに一体何が作れるのか。それをわざわざ日本に体験しに来たい、もしくは海外にいながらそれを自分たちに取り入れたいという日本のカルチャーや技術とは一体なんなのだろうと。もしかしたらそれってお茶に関連するものなのではないかと思っているのですが、お茶と文化を武器に国内外で戦っている岩本くんならどう考えますか?

岩本さん:

前段として、社会が大きく変容し多様化しているという状態があります。起業家、アーティスト、モデル、インフルエンサー、サラリーマンなどいろいろな働き方をしている人がいて、自分たちの目指す先が多様化している。目指す先が可視化、多様化したことによって社会のすべてが変数になってしまった。

 物を買うにしても機能的に良ければ買うという時代は終わり、持続可能かどうかという部分まで考える必要があります。どこに住むかというのもそうで、リモート解禁により都市に住み続けるのか移住するのかという問いも投げかけられてしまう現状。すべての意思決定が多様化してしまったことによって、“変わらない何かを持ちたい”という需要が大きく発生していることが大きく関係している気がします。

正確にいうと“変わらない”というよりも、長く使用して自分色に染めていける何かを求める人が増えているようにも思います。長く使うことで自分色に染まっていくこと、自分の私生活の中に何かしらの変わらないものを取り入れたいという感情が大きく動いてるのではないでしょうか。ですので、モノを大切に繋いでいく技術、それを自分色に染めて自分のものとして人々に表現をしていくということがポイントとなるのではないかとも思います。

家庭用のサウナも、変わらない何かが要素のひとつとしてあることを大切にしてみると良いのではないでしょうか。すべてをパッケージ化して提供するのではなくあえて余白を残しておき、自分が毎日使うものに対してどのような要素をエッセンスとして取り入れたいかというヒアリングをするとか。また、それがもし壊れてしまった場合に、それを自分なりに美しく後世に残していけるような継ぐ技術みたいなものがオプションで入ってくるのも面白そうじゃないですか?

真榮城さん:

面白いね。

 岩本さん:

現代に合った生活様式の中で微々たるニーズを取るよりは、人々に憧れを抱かせるような空間を持つことが豊かであると世間の認識を動かすことを優先したほうが有意義かもしれません。床の間がある部屋には壺とかを置きたくなるように、それに付随する周辺材が売れていくはずなんですよね。例えばお茶会に来てもらうために一番有用なツールって、着物を作ってもらうことなんですが、そういう感じでキーファクターというかキーのツールを作ったらどうですか?

真榮城さん:

なるほどね。

1000分の2が変われば世界は変わる

真榮城さん:

型というものは日本だからあるものなんですか? それとも、世界中どこにでもある「型」の日本バージョンなんですか。

岩本さん:

喫茶様式の話になってしまいますが、ここまで人のことを思って儀式化したというのはあまりないような気がしますね。あまりないというよりは、意識としては産業化によって淘汰されているという方が近いと思います。例えばペルーのアヤワスカは、人のための儀式であって自然のための儀式でもある。でもあれがマジョリティーかというとそうではないですよね。

先ほど真榮城さんは「茶道には現代まで続く長い歴史があるが、茶道の精神を理解している人は少ない」とおっしゃっていましたが、茶道の人口はだいたい100万人ぐらいなんです。単純計算では、人口の1%はお茶に触れている状況。ここで少し面白い考え方をしてみます。お茶の飲料は成分量が0.2%しかありません。たったこれだけの分量でお茶は水の色を染めているんです。ちなみに明治維新において倒幕運動をした人も同じくらいの比率です。たったその程度で世界が変わるということであるならば、1000分の2が変わればどうなるでしょう?

真榮城さん:

なるほど面白い。僕は住宅設計出身なんで、日本の住宅の様式の移り変わりについてはよく知っています。戦前から残っている場所には茶の文化が垣間見えたりしますが、その後はどんどん減少します。現在なら1LDKの大きな部屋に家族3人で住んでいるというのもそんなに不思議なことではないし。住宅や部屋のあり方がどんどん移り変わっていく中で、薄まりながらもなんとか残っているこの茶の型の文化を濃くするような動きができればいいですけど。

岩本さん:

なぜそれが流行っていたのかという理屈や理由を考えると良さそうです。どちらかというと、中で内省をしてもらう空間を作るというよりは、それをせざるを得ない環境が自宅内にあるという構造を作っていこうと思わせる方が大切だと思いますね。例えば、庭の一角のバーベキュースペースで焚き火をしながらゆっくりと時間を過ごすなんていうのも、内省のためのひとつのツールなんじゃないかなと思います。これと同じように、日本家屋の囲炉裏とかも多分内省のスペースとしても使われていたんじゃないでしょうか。

時代とともに、内省のための場や手段が減少している

真榮城さん:

ちなみに自宅内に自分を内省せざるを得ない環境をコンパクトに作れると仮定して、なおかつそれがある程度日本で普及したとしたら、これらは海外の住宅の中において価値のあるものになると思いますか?

岩本さん:

価値のあるものだと理解する方々もいると思いますが、全体がそういう風潮になるかというとわかりません。着物を例に出すとわかりやすいかもしれませんが、一般の方々は着物を着る機会があまりなく、「着物に対する理解を深めたいから着物屋さんに行く」とはなりませんよね。結婚式とかで着物を着たいとなってはじめて着物屋さんを検索し始めるわけです。社会のインフラ的に必要であるものっていうのは分かりながらも、それを欲するタイミングというのは各々違いますから。

真榮城さん:

なるほど。

岩本さん:

あと、内省の環境を作るのなら“揺らぎ”は絶対に必要な要素です。ベルリンの壁の近くのブランデンブルクの真横にある瞑想室に高校生のころバックパッカーで行ったんですが、そのときの感動と恐怖は今でもしっかり覚えています。

 真榮城さん:

何が恐かったんですか? 

岩本さん:

あそこは世界各国が支援して作った無音の空間なんですが、外は観光客が大量にいてすごい喧騒なのに、その空間に入った瞬間に無音になるのがめちゃくちゃ恐かったんです。このとき揺らぎの重要性を、身をもって体験しました。

例えばお茶室の中では釜の音がして、湯気がゆらゆらしている。お花は唯一生きているものとして存在し、なおかつ花がゆっくりと咲き始める様はタイマーの代わりとなる。なにかしらの動いているものがあるからこそ自分は動かなくていられるので、そういった揺らぎを持った空間にすることが、内省の環境には必要なんじゃないかなと思います。

真榮城さん:

でも、いかに内省を強制化する環境を作るかに帰結しますね。その概念自体がプロダクトに落ちていくと「何であるべきなのか」っていうのが問いになる。

岩本さん:

単純にコンパクトで小綺麗なものを作ろうという発想よりも、豊かさとは何かについて模索しながら購入者とも対話をして作っていくとか、プロダクトの出発点が「機能的かつ都市部で、それを導入できる100万円です」というところからスタートした方がこの探索がうまくいくような気がします。

あと結局、時代は逆張りなんですよね。黄金の茶室が出たら、わびの茶室が出てくるわけです。なので、今ってすべてのものが高付加価値化してどんどん小綺麗になっているんで、僕が好きなサウナの中にオクチルっていうまさに“逆張りのサウナ”があるんですが、あえて「自分たちでDIYしたボロボロなんだけどいいよね、こういうの」というような体験っていうのを山の中にドンとおいてみるみたいなのも、非常に良い取り組みなのではないかと思います。

 真榮城さん:

でもそれって小綺麗の反対のDIYであると同時に、工芸的な意味合いも持つよね。

岩本さん:

そうそう、趣向がすごい現れる。

京都のサウナ文化と流派の考え方

真榮城さん:

日本人は大衆化するためにルールを作るのを得意としている節があると思うんです。例えばサウナに関しても、メディアとかサウナ好きの人たちの間で交わされている現状がありますよね。僕が違和感を覚えたのは、京都のトラディショナルな銭湯にサウナマニアが行って、そこで地域のおじさんたちが汗を落とさずに風呂に入っているのが嫌だったと否定していたこと。でも京都の風呂はそうやって入るものであるわけで、それを外部の人間が「サウナの入り方と違う」と否定するのは違うんじゃないかと思うわけです。

型やルールって、単純に言うと自由と逆の考え方とも考えられます。ただ、型を理解しているからこそ違いがわかるということもあるかもしれません。茶道も型があるものですが、茶道の界隈ではどうですか?

岩本さん:

お茶を習っている人がお茶を知らない人の作法を見て「作法が違う」と注意するみたいな話ですよね。裏千家の家元は基本的に「どんな茶人でも受け入れる」という思想なんですが、中には当然型や作法についての違いを注意する人もいます。茶碗を回す回さないみたいな議論もそう。でもあれって本来は立派な茶をいただくにあたり、丁寧に扱おうよ、あるいは割れないように注意しようねという話なわけです。それは型やルールという表面的な話というよりは、どちらかというと人間としてどう思っているかという話になってくると思います。だって「これは1億円の茶碗です」って言われて、乱暴に触ることってないですよね。だからどれだけ成熟した社会を作っていくのかっていう方が重要な議論な気がします。

真榮城さん:

茶道もサウナも日常というよりは体験という感覚が強いですよね。たまにしか触れないものだから、自分の身近なところの型を基準に考えていろいろなことが気になるということなのかもしれませんね。

岩本さん:

型を作ることによって大きな広がりを見せることもあるので、文化や業種の発展のためには必要なプロセスであるとも思いながら、一方で正解を設けるとそれと違うことをする人が現れたときに「それは間違いだ」と指摘する人は出てきてしまうと思います。もしそれを解消する方法を模索するとするならば、いろいろな派閥を作るのが良いかもしれません。そうすれば「うちの流派は水風呂のときに前にシャワーを浴びないんだよ」と言えばいいという話になるので。

真榮城さん:

なるほど、これは目から鱗だね!

岩本さん:

京都のサウナ文化の話に絡めるなら、京都のローカルは京都の流派であるということを認知として広げるというように、周囲に文句を言わせないためのひとつの手段として自分を守る手段を持っておくのは有効だと思います。自分のエゴ的な動作を認めるひとつの理由づけになるので、あえてそれを高々に社会表現するのはそれもまた子どもじみた話だなと思っちゃうんですけど、手法としてはありますよね。

真榮城さん:

いろいろな価値観があるというのがわかるだけでも違うと思います。

岩本さん:

茶道って実は100弱も流派があるんですが、どれもちゃんと受け入れられています。サウナも同様に、自分と違うものを一様に否定するのではなく多様性を認めたり多様化を許容したり、“そういう特性を持つ人”として見られる心構えのようなものを持てるといいですよね。

真榮城さん:

家庭用のサウナのあり方、サウナを超えた存在としてのサウナみたいなところで、やっぱり茶道は話が通ずるところが多い気がしますね。

Text:小林ユリ
Photo:上村窓
Editi:小林雄大

対談動画はこちら

対談

2024/10/31

Japan Saunaコラム

サウナを「ただの嗜好品」ではなく、文化に昇華するために。 茶道と比較して見えてきた文化の内側